バスタイム

「幸村?」
 真田が帰宅をすると、幸村の姿が見当たらなかった。
 限られたマンションの部屋の何処かにいることは確実なのに、真田は少しの間も待ちきれずに幸村を探すと、すぐにバスルームの明かりがついているのを見つける。
 ――もう風呂に入っているのか。
 脱衣所に足を踏み入れてもやけに静かだった。
「幸村、開けるぞ」
 そう一声、声を掛けたことで真田は、幸村からの返事を待たずに遠慮なくドアを開ける。
「おかえり、真田」
 幸村は首だけでこちらに振り返ると、すぐ姿勢を元に戻して真田に背を向けた。
 広いバスタブの中で、ちゃぷんと静かな水音を立てながら、湯をすくっては、流し、またすくっては流しを静かにゆっくり繰り返している。
 普段は癖のある髪が、濡れた水分の重みで真っ直ぐになっている。わかっていても見慣れない、小さく綺麗なカーブを描く幸村の後頭部をまじまじと見てしまう。
 その視線に気がついた幸村が「頭に穴が開きそうだ」と意地悪くささやく。
「俺も……、いいか」
「いちいち俺に断らないと何かしてはいけないなんて、一度も言ったことないだろ」
 今だって勝手にドアを開けたも同然だった。
「あ、ごめん、早く出ろっていう意味かい?」
 ざぷんと大きく波を立てて、幸村が身体ごとバスタブの中で向きを変えて、立ち上がろうとした。
「いや、出るな。お前が入っているから入りたい」
「そう、ならやっぱりいちいち断ったりしないで、早く脱いでおいで。俺、そろそろのぼせちゃうから」
 先程から湯の中で泳ぐように動く幸村の白い腕が、「おいで、おいで」をしているようだった。
 真田は生まれて初めて、何故風呂に入るには裸にならなくてはいけないのだろうか、と妙なことを考えた。それくらい、服を脱ぐ時間を惜しんだ。こういう時に限ってボタンやらベルトやら手間取る服を着ていて、真田の短気が悪循環して手間取ってしまう。
「風が入るからドア閉めとく」
 幸村がバスタブをまたぎ、肌をつたう湯だけをまとった姿で向かって来る。白い肌の上を水滴が転がり伝うのが見えた。
 ドアを閉めるために延ばした手を、真田は思わずつかんでいた。
「さな、だ?」
 幸村の長く白い腕には、冷えたのだろうこの瞬間にも鳥肌が立っている。
「俺が閉める。入って暖まって待っていろ」
 濡れたままの幸村の身体が外気によってどんどん温度を奪われていくのと反比例して、真田が掴んでいる部分にはじわじわと熱がこもっていく。
「んー、やっぱり閉めないでいい。シャワーを出して待ってる。真田が脱ぐとこ、見ながら」
 幸村は事ある毎に真田の身体を褒める。
 それは単純に真田を喜ばせていた。
 幸村がシャワーを出して、冷えた身体を暖め始める。流れる無数の水の線が、幸村の身体をなぞって滴り落ちて流れていく。
 ドアを閉め切っているなら、湯気が立ち込めて少しでも幸村の身体を隠すのだろうが、今は外気に消され、湯を纏っただけの姿を露わにしている。
 この場にはつつしみという言葉はもともと存在しない。
「ねぇ真田、いつまでそうやってじっと俺を見てるだけなの? 早く脱いでおいで」
 幸村は俺だけ裸で間抜けだ、と言うが真田にとっては中途半端に脱ぎかけた服を着ている自分の方が間抜けに思えた。全裸でまっすぐに真田を見る幸村のほうが、本来あるべき正しい姿をしているようにしか思えなかった。
 そしていつまでも正しくない姿で居るのを、咎められているような気になってくる。
 大体、二人の間に少しでも距離がある時はいつもこうだ。幸村のほうが冷静で、まるで真田の支配者のような振る舞いをする。だが、一度距離さえとっぱらって肌を合わせてしまえば幸村は真田には抗えない。そう、それまでとわかっていての虚勢なのかもしれない。
 服を脱ぎ終わった真田は、シャワーを浴びている幸村の腰に手をまわし背後から抱きしめる。
「やっときたね。俺はもう身体は洗ったから、俺が真田を洗ってあげる」
 くるりと幸村が真田の腕の中で身体の向きを直すと、その手にはボディソープをつけたスポンジが持たれていて、真田の身体になすりつける。
「座りたい?」
「お前が疲れるなら、座ろう」
「ん、俺は大丈夫。さっきまで座ってたから」
 幸村の腰にまわしていた腕もやんわりと引き離され、持ち上げられて日頃影になっている部分も洗われる。
「幸村……」
「なに? 洗い足りないとこあった?」
「いや、もう十分だ」
「嘘、まだ全然洗い終わってないよ」
「それより……」
「駄目」
 真田が何を言わんとしているのかをわかりきっていると、断定した上で否定の言葉を吐かれる。
 真田は、自分の身体を洗う幸村の腕を取って、強引に止めた。
「駄目だって。俺、ここじゃ嫌だよ」
「何処ならいいんだ?」
「馬鹿だなぁ、ベッドの上に決まってるだろ? 腰が痛くなるのは俺なんだから」
「む、そうか」
 真田は大人しく諦めた振りをすることにした。
「俺は真田と一緒にお風呂に入るの好きだよ。俺の好きな事につきあって、ね」
 それから真田の身体は幸村によって丹念に洗われた。
「はい、お終い。入っていいよ」
 シャワーで泡を洗い流した真田がバスタブに先に入って幸村を待つ。幸村を後ろから抱きたくって背中をこちらに向けるように座らせようとするが、真田の企みは見えみえだったようで、あっさりとかわされる。
「ふふ、珍しい真田のおでこ見ていたい」
 幸村同様、風呂の中では普段と少し違う真田になる。
 バスタブの横幅いっぱいに広げた真田の脚の間に、向かい合って幸村の身体が入った。
 しばらくは大人しく、また幸村が湯で遊ぶのを眺めていた。
 幸村は、その動作を続けながら真田に今日の出来事について他愛もない質問を投げかける。真田は適当に答えつつも、ここに居ない誰かの話題にならないよう気をつけた。真田は嫉妬深いのだ。
 そのうち、真田に向かって伸ばされている幸村の両足首を、それぞれつかんで自分に引っ張り寄せた。ただし、幸村が湯に沈んでしまわないように、ゆっくりと注意を払って。
「おい、もう十分暖まったろう?」
 真田は引き寄せた幸村の額に、熱を測るように自分の額をくっつけた。
 真田との距離がぐんと近くなった幸村は、そのまま少しだけ湯に身体を沈め、上目使いで真田を見る。湯に唇を隠したつもりらしい。
「出るぞ、そしてやらせてくれ」
 幸村は湯の下の自分の肌で真田の硬さを感じたようで、一段と頬を赤く染めて、静かに湯から唇を出して言う。
「なぁ、もう一度言ってくれないか」
「何を、だ?」
 真田は握る場所を、幸村の足首から細い手首に変えて湯から立ち上がった。
「真田の……、やりたいこと、俺にしたい事を言って」
 幸村は引き寄せられるままに、大人しく立ち上がって真田にしなだれかかる。もう一度、真田の硬さを確かめるように、身体をすり寄せて。真田は幸村の好きにさせたまま、耳元でささやいてやる。
「やらせろ、幸村」

 足場が悪いから、脱衣所までは手を引いて歩いて行いたが、その後は幸村を抱き抱えて濡れた身体のまま、ベッドの上へ少々乱暴に押し倒した。
「バスルームってさ、声が響くだろ。それでね、お前の声を聴くのが好き……なんっだ……」
 ――どうせ、また後で風呂に入るのだから、その時いくらでも聴かせてやる。だから今は俺にお前の声を聴かせろ。
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