四歳になったばかりの幸村精市は、その日、父親に連れられ絵画教室を訪ねていた。 広告代理店に勤める父親は、自身の趣味を息子に押し付け勝ちだった。もちろん欲目ではなく、絵の才能はあると思っているし、しっかり習っておけばいずれ父親の職業に興味を持った時に役立つ。 幼くとも父親の属する華やかな業界に顔を出し、大人に囲まれ注目される事に慣れていた幸村は、絵画教室の雰囲気に呑まれることなくすぐに馴染んで一日体験を楽しんだ。 絵画教室の近くのパーキングからは、隣接するテニススクールのコートが見える。 帰り際、幸村はすぐに車に乗り込まずにフェンス越しにじーっとコートの中でボールが移動するのが気になった。 その集中した様子に、声をかけようとした父親は息子が飽きるまで待つことにした。 幸村の視線はいつしか黄色いボールからある黒髪の少年に向かっていた。 ――すごいなぁ。なんだかかっこういいし、たのしそう。 幸村は自分もやってみたい、と思うと同時にあの男の子と一緒にやりたい、とも思っていた。 「真田、ナイスサーブ!」 真田は慣れた様子で腕で汗をぬぐい、無言で頷いた。 ――あのひと、さなだっていうんだ。 「パパ! 僕さなだとテニスがしたい!!」 幸村は慌てて車に乗り込むと、後部座席から身を乗り出して父親にねだった。 突然の、可愛い息子の珍しいおねだりを父親は無下にできず、その日急遽絵画教室からテニススクールに習い事を変更した。真田が誰のことだかわからないまま。 テニススクールへ入ると、初心者の幸村は当然お目当ての真田と同じクラスにはなれなかった。それもそのはず、真田は上級者クラスだった。 それでも真田が視界に入るとドキドキして、何とか気を引きたいと思った。 そんな幸村の想いは簡単に叶う。 何せ幸村はまだ幼いこともあり、性別不明なとびきりの美形が入会してきた、とスクールでもちょっとした話題になっていたのだった。 可愛い男の子だと判明したところで、可愛い子が愛されるのに性別は関係ないと誰もが幸村の面倒を見ようと群がってくる。 その中には、御多分に漏れず真田の姿もあった。 当然幸村の視線は真田にしか向いていない。 「君、名前は?」 「ゆきむらせいいちだよ」 「おれは真田……」 「しってる! あのね、さなだとテニスがしたくてパパにたのんでここに入ったの!」 「え? ほんとうに?!」 「うん! だからテニスしよ!」 「そうなんだ。すごくうれしいんだけど、でもまだできないかな」 「どうして?」 「ゆきむら君は入ったばかりだろ? もっと練習をして同じグループにまで上がってこないと危ないから」 「そっかぁ……」 それから真田にとっても幸村の存在は特別なものになった。 理由はわからないが一緒にテニスしたい、と懐かれるのは素直に嬉しい。まして皆が注目する幸村だ。 最初は可愛い見た目だけでテニスについては期待していなかったが、それもすぐにセンスがあると評判になった。真田が見ても欲目ではなくそう感じられた。 ある日真田は幸村を自宅に誘った。 「スクールでは無理だけど、家に来てくれたら俺がテニスを教えてあげる」 「いく! いきたい!!」 そして幸村は真田の家に初めてお邪魔した。 コートこそなかったが、広い庭は子供がテニスをするには充分だった。 「さなだくん!?」 幸村は驚く光景を目にする。 ラケットをぶんぶんと振っていた真田を見つけて駆け寄ると、幸村はそのまま抱き着いた。 「どうしたの!? 一緒にテニスするために僕に合わせて小さくなってくれたの!??」 「!?」 それまでの真田は幸村よりも一回り以上大きかった。それも当然で、幸村よりもだいぶ年上だからだ。 抱き着かれた真田もまた驚いていた。 自分より少し小さいが、可愛く、そして抱き着かれた身体は柔らかくふわふわしていい匂いがする……。 見たことがない子だけど、決して拒めない。真田はカチコチに固まっていた。 「おいおい、なんで庭の真ん中で二人で抱き合ってんの? お似合いかよ」 聞き慣れた声に、幸村はまたしても驚いて振り向いた。 「あれ!? こっちにはいつものさなだ!?」 そういえば、今日はどうしてラケットを縦に振っているんだろう、と幸村は自分と同じくらいのサイズになった──と思い込んでいた真田を見て思っていた。 そして今──。 「ねえ幸村! ゲンイチローよりパパの方がかっこいいよね! 幸村もそう思うでしょ!」 「あ、うん、左助君のパパ、ね、そう……かな?」 休日の真田家の団らんに当たり前のように混ざる幸村は、そろっと隣に座る真田の顔を見る。 真田は目だけをギロリと動かすと、何も言わず幸村を見て無言の圧をかけた。 真田にとって誰にも知られたくない幼い頃の思い出がある。 幸村がテニスを始めたのは先にテニスをしていた兄がきっかけで、兄に間違われて抱き着かれたのが、幸村との初対面だったなんて。そしてそれから竹刀だけではなく、真田もラケットを握るようになった、なんて。 (2022/12/3)