二月八日のカメリア

作:MOMOCA(@puruya_momoca

 観客がたった二人しかいない空っぽの客席を前に立つ役者や奏者たちは、どんな気持ちで演じ奏でるのだろうか。
 客席のことなど気にも留めず、数時間の物語を真摯に生きるのだろうか。
 それならば有り難い、と幸村は思う。跡部に誘われる公演はいつも貸切で、人に吸い込まれない音は反響が大きく感じる。
 クラシックに疎くとも、誰もが一度は耳にしたことのある旋律を右から左へ受け流しながら、隣に座る跡部に悟られない程度の息を吐いた。
 今日も今日とて、前日に連絡がきて放課後に拉致された。部活は互いに引退をした今、さして問題はないものの、そろそろ校門前に停まる黒い高級車が立海の新たな名物になりそうで頭が痛い。
 意識を舞台に戻す。胸に椿の花を飾った女が朗々と歌っている。イタリア語はあまり耳馴染みがなく、スクリーンに映される日本語訳に目を向けた。
 本日の公演、ジュゼッペ・ヴェルディによるオペラ「椿姫」のあらすじはこうだ。

 十九世紀のパリ、主人公は美しい高級娼婦・ヴィオレッタ。いつも椿の花を身につけ、椿姫と呼ばれていた彼女は享楽的な生活がたたって肺病を患っていた。
 街で見かけて以来、彼女に恋心を抱いていた田舎出のブルジョワ青年アルフレードは夜会でヴィオレッタに愛を打ち明け、一緒に暮らそうと申し出る。
 社交界での華やかな生活を捨て、ヴィオレッタはアルフレードとパリ郊外で穏やかに暮らしていた。ある日、ヴィオレッタのもとにアルフレードの父が訪ねてくる。彼はヴィオレッタに、自らの過去を考え、息子と別れるように迫った。ヴィオレッタは真実の愛を訴えるが、それも虚しく失意の中で別れを決意する。ヴィオレッタからの別れの手紙を読んだアルフレードは、彼女の不意の裏切りに逆上した。
 数ヶ月後、ヴィオレッタの病は悪化の一途を辿っていた。すべての実情を知ったアルフレードが駆けつけるが、時は既に遅く──

 という、救いどころが見当たらない、どうしようもない悲恋だ。原作となっているアレクサンドル・デュマ・フィスの同名小説は入院中に読了していたから、ストーリーは把握している。
 それにしても、なぜ跡部がこの演目を選んだのかわからないし、制服の胸ポケットに挿し込まれた一輪の白い椿の理由もわからない。なにこれ、と幸村が口を開きかけたタイミングで幕が上がったからだ。まるで、それが開演の合図だったかのように。
『この花を差し上げるわ。枯れたら返してくださる?』
『では、明日お返ししましょう!』
 舞台の上では結末を知らない二人が言葉を交わし、再会を約束している。ヴィオレッタがアルフレードに渡した花こそ、椿だ。
 花から花へ。かの有名なアリアをヴィオレッタが歌う。
 彼女は一ヵ月のうち二五日は白い椿を、残りの五日は赤い椿を身につけていた。それは女性特有の現象を暗喩するものらしい。
──跡部は俺を高級娼婦だとでも思っているのだろうか。
 否定できないところはあったものの、金銭は一切受け取っていなかったし、今となってはすべて過去形で語るべきことだ。
 そっと白い花弁に触れたら、今にもぽとりと落ちてしまいそうだった。
 最後、ヴィオレッタは死ぬ。アルフレードの腕の中で。
 死へ向かってひた走る物語に、背筋が凍りそうだった。完全完治を告げられたし、そもそも自分はヴィオレッタではないのに、胸元の白い椿のせいか意識が勝手に重なってしまう。息子を本当に愛しているなら別れて欲しいと、跡部の父親に告げられるのは恐らく時間の問題だ。そして、きっと自分は受け入れる。ヴィオレッタと同じように。
 そんな幸村の思案は顔に出ていたらしく、ふと跡部が演奏にかき消されない程度の声量で言った。
「俺がアルフレードならヴィオレッタを死なせたりはしねえ。世界で一番優秀な医者を見つけて必ず助けてやるし、なにがあっても手放したりしねえ。だからお前は呑気に花が綺麗に咲きそうだとか言って笑ってりゃいいんだよ、俺様の隣でな」
 鑑賞中の会話はご法度でも、他に観客がいないという特殊条件下では許されることを知った。幸村はきゅっと眉根を寄せる。
「それはそれで、どうなんだろう。……というか、跡部の中の俺って平和なんだな」
 不服さは拭えないけれど、それ以上にくつくつと笑いが込み上げてきた。跡部がアルフレードだったら、本当に物語を根本から書き換えてしまいそうな説得力があるから不思議だ。
『不思議だわ!』
 同時に、ヴィオレッタの声が聴こえた。不思議といえば、気になることがまだある。演者には申し訳ないけれど、会話を続けさせてもらおう。
「この花、なんだよ」
「ああ、楽屋に顔出したらヴィオレッタに渡された」
 だから、先に座っていろと言ったのか。
 合点がいくのと同時に、どろりとした感情がゆっくりと渦を巻き出した。
「ふうん……明日お返ししなくていいのかい?」
「残念ながらあの女に興味はねえよ。白い椿、お前にぴったりじゃねーの」
「それ、褒めてないだろ。俺は死に至る病に侵された高級娼婦じゃない」
 自分でも驚くほど冷たく低い声が出た。今日は妙に調子が狂う。
「バーカ、そっちじゃねえ。……まさか、普段から草だ蕾だ花だと騒いでるやつが、椿の花言葉を知らねえとはな」
「……教養がなくて悪いね。誰かと違って俺は花を女性に贈る機会なんてないし、花言葉に詳しくなる必要がないだけだよ」
「じゃあ、一つくらい覚えておけ。白い椿の花言葉は『完全なる美しさ』『申し分のない魅力』『至上の愛らしさ』だ」
 まさに愛らしい嫉妬だな。跡部が得意気に笑って付け加えたから、カッとなって胸元の椿を跡部に向けて投げつけた。他人に手折られた花に、愛情など微塵もない。
 すると、椿姫の呪縛から解かれたのか、単純にも落ち着いたのか、まったく意に介さない跡部の態度からか、気がついたことがある。
 アルフレードはヴィオレッタが高級娼婦かどうかなんて、病を患っているかどうかなんて、初めから気にも留めていないのだ。
 真実の愛を知り、愛するひとの腕の中で息を引き取るヴィオレッタは、見方を変えれば幸せなのかもしれない。
 黙り込んだ幸村が跡部の肩にもたれかかると、当たり前のように肩に逞しい腕が回った。
 喧嘩は、もう終わりだ。

 ***

 高速を走る車内で舞台の感想を一通り話し終えたあと、突然、跡部に黒と白でデザインされた箱を渡された。すっかり見慣れてしまったブランド名が中央に刻印されている。
「白い椿はお気に召さなかったみてえだからな」
 幸村が首を傾げながら重厚な箱を開けると、白銀に輝く小さな椿の花が鎮座していた。ホワイトゴールドにダイヤモンドが贅沢にあしらわれたブローチだった。
 あまりにも有名な、映画にもなったこのブランドのデザイナーは、生涯椿のモチーフを愛したとどこかで聞いたことがある。
 いつの間に? 喉元まで出かけた疑問は既のところで飲み込んだ。幕間にミカエルとなにかを話していた姿は幸村も見ていた。
 こうして物語どころか記憶まで書き換えるのだ、この男は。
「どうしても椿に拘るんだね」
「今日は椿の日なんだと。まあ、くだらねえ語呂合わせだ」
 跡部に言われて、幸村は今日が二月八日であることを数時間ぶりに再認識した。どちらの誕生日でもなければ、大きなイベントの日でもない、言ってしまえばなんでもない日だ。それを、強引にも特別な日にしてしまうのが跡部景吾なのだろう。
 事実、このブローチを見るたびに今日を思い出す。きっと、覚えておけと言われた白い椿の花言葉も一緒に。
「……ねえ、ダイヤモンドの椿の花言葉は?」
 どうせ一ヶ月後には卒業しているのだから、とブレザーの襟に直接ピンを刺しながら幸村が意地悪く問いかけてみれば、跡部は鼻を鳴らしてから即答した。
「そんなの『お前は永遠に俺のものだ』に決まってんだろ」




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 Happy Birthday !!
 from momoca 8.2.2023
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